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伊藤雄二郎のさわやか系心理学


19、 蘇る神話的ビート、パート7・・・浦島太郎の深層 2

浦島太郎の物語は、現在一般に知られている形を取るまでには様々な変遷を繰り返した。その原型は古くは『日本書紀』や、『丹後風土記』などに見出すことができる。

亀の意味するもの
ユング派の心理学者河合隼雄は、フロイト派の岸田秀とは異なり、亀を土、肉体、母などのイメージの代表、あるいは天地、父母などの分離以前の状態を指すものと捉えている。

河合氏の解釈では、浦島太郎の物語は、母親との結びつきの強い男性の退行に始まると捉えられている。乙姫は、浦島のアニマ像(ユング派でいう男性の無意識内に布置されている女性像)であり、浦島に求められていたのは、乙姫というアニマ像との間に望ましい関係を確立することであった。しかし、浦島がそれに必要な意志力を備えた男性性を備えていなかったため、玉手箱を開き、悲劇的な結末に至ったのだという。

玉手箱と禁止のモチーフ

玉手箱に限らず神話や民話にはパンドラの箱に代表される「禁止」をめぐるテーマが繰り返し表れる。この場合でも禁止を破ることが破局にいたるとは限らない。禁止を破ることによって生じる苦労を克服していくだけの強さを主人公が持ち合わせているとき、それは高次の自己実現へのステップとさえなると河合は指摘する。浦島はその点あまりにも弱かった。それゆえ禁を破って玉手箱を開けてしまった彼が老人となるのは当然の帰結とするのが河合の解釈の基本路線である。

河合はさらに、近松門左衛門の『浦島年代記』という物語を例にとり、これを少年としての浦島像を克服する試みとして捉えている。
河合氏の解釈もなかなかに説得力のあるものだが、氏の解釈も昔話を人間の無意識内の心的過程の反映として捉えようとする立場からのものである。

参考文献:『母性社会日本の病理』河合隼雄(講談社+α文庫)

浦島伝説のSF的解釈

これとはまったく異なる視点から、浦島の物語を科学的に解読しようとする試みも存在する。この解釈は豊田有恒氏はじめ、何人かのSF作家たちから提示されている。

SF的な解釈では、浦島太郎は宇宙人にさらわれ、異星へ高速移動したために、地球との時間の進み方にズレが生じたということになる。この場合、亀は宇宙船であり、竜宮城は異星となる。アインシュタインの相対性理論によると、物体が高速に近い速度で移動する場合、時間の流れが遅くなると考えられている。

仮に光速に近い速度で移動する宇宙船を想定すると、宇宙船の中と外とでは異なる時間が流れることになるというのである。

双子のパラドックス

これは双子のパラドックスと呼ばれ、光速で宇宙を旅してきた人が再びもといた地点に帰還してきた場合、旅をしてきた人は年を取らないが、その場所にいた人は年を取っているという現象が起きるというのである。この現象は科学的に裏づけられているが、浦島太郎が竜宮城で過ごした数日間に地上では数百年という時が経っていたというくだりがこの現象に近似しているため、この現象を「ウラシマ効果」と呼ぶこともある。

時間の神秘性

SF的な解釈そのものは、荒唐無稽な感を否めないが、興味深いのは科学の発達によって初めて明らかにされた時間の神秘性について、昔話が暗示的に物語っており、人々がそれを語り継いで来たということである。人々がそこに「何か」を感じないかぎり、浦島の物語はここまでポピュラーになることもなかったに違いない。人々がうすうす感じていながら明確には言葉に出来ない未知の感触。そうしたえもいわれぬ感触を伝えてくる何かがこの物語にはある。大切なのは、「正しい」解釈に頭を悩ませて物語を無味乾燥なものに変えてしまうことなく、物語の伝えてくる感触を味わい、未知なものは未知なものとして謙虚に受け止めるのが物語とのつきあいとしてベストであろう。

 

浦島太郎の原型

さて、これまで提示した様々な切り口からの解読は、一般に知られている「浦島太郎」を基に展開されている。しかし私たちがよく知っている浦島太郎の物語が広まったのは、明治43年から昭和24年までの国定教科書によるものである。(またしても国定教科書である)

実は国定教科書に掲載された浦島の原型となった物語は複数存在し、それらはそれぞれ異なったものなのである。

この中で私が子どもに聞かせたいと思う御伽草子による浦島太郎のお話の結末は、国定教科書バージョンとはかなり異なっている。

 太郎が玉手箱を開けるシーンから少し引用させてもらおう。

ハッピーエンド・バージョン

太郎が箱を開けると、中から紫の雲が三筋立ち昇った。途端に、太郎の若しい姿が変わった。箱の中には、七百年分の太郎の年齢が封じ込められてあったのだ。太郎は鶴に変わり、天に舞いあがった。こうして、鶴になった太郎は蓬莱山に行き、仙界の一員となった。このように、亀を助けるような情のある人には、めでたい行く末が待っているのである。その後、浦島太郎は丹後の明神として、亀と一緒に夫婦神として祭られている。

参考文献:『日本昔話集成(全六巻)』 関敬吾著 角川書店 

おかあさんが、浦島太郎の謎について子どもに尋ねられた場合、本当の浦島太郎の話はこういうバージョンもあるんだよ、と教えてあげるのもひとつの答えとなるかもしれない。
だが、こうした多様なバージョンの原型となった物語は一体いかにして発生したのか?真説と言える浦島太郎の物語は存在するのかという疑問は残る。

創作としての浦島太郎

こうした疑問に取り憑かれとことん追求してしまうタイプの人もこの世には存在する。『浦島太郎の文学史』(三浦佑之)という本の中では、この問題が徹底して探求されている。本書で提示されている結論は、浦島太郎の原型は、伊預部馬養(いよべのうまかい)という人物がいろいろな中国の神仙物語を読んで、原型となる物語を書いたと判断するのが妥当であるという。

古代、浦島太郎は「浦島子」とよばれていた。『日本書紀』で語られるその物語において海中にあったのは竜宮城ではなく、蓬莱山であった。蓬莱山というのは、中国の伝説の山で、仙人が住み、不老不死の地とされる霊山である。この物語では、海中の蓬莱山から浦島子は故郷に戻りもしなければ、よぼよぼのおじいさんになってもいない。さらに『丹後国風土記』における物語においては乙姫さまは仙女として描かれており、神仙思想との深いつながりが見て取れる。

このように浦島太郎のルーツを辿っていくと、神仙思想と、国定教科書というキーワードが浮上してくる。このあたりの事情は桃太郎も同じである。日本人の意識はその深層においては神秘的な神仙思想の影響下にありながら、国定教科書に掲載される時点で神仙思想的な世界観は、表面上カットされている。桃太郎にしろ、浦島太郎にしろ日本人が長く慣れ親しんできた御伽話が神仙思想の影響下にあるという事実は興味深い。

御伽話との上手なつきあい方

浦島太郎にしろ桃太郎にしろ、御伽話の世界というのは、現実感覚との齟齬を感じさせるものが少なくない。にも関わらずこうした物語が長きに渡り語り継がれてきたということは、そこの何らかのリアリティーが込められているからに他ならない。

物語は我々のイマジネーションを刺激し、我々に未知なるものの感触を伝えてくれるが文字通り受け止めようとすると我々は誤りを犯す。

御伽話はある種のリアリティーを映し出す詩のようなものとして受け止められるべきであろう。それは実用的ではない。だがある種の美しさを感じさせてくれる。次々と豊かなイメージを喚起させる物語の力を楽しむこと。そのようにして、物語の伝えてくる未知なるものの感触に耳を澄ます感性を育むことを通し、私たちは物語の伝えようとする真実に接近していくことができるに違いない。

 

                         (2006,1、28)




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