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伊藤雄二郎のさわやか系心理学


18、 浦島太郎の深層   その1

子どもの発する素朴な疑問

御伽話(おとぎばなし)を例に挙げて講座を進めていると、思いもよらぬ質問が飛び出すものである。先日桃太郎の話をした際に「桃太郎の話はよく理解できたのですが、別のことでどうしても理解できないことがあって・・・」と一人のおかあさんからの質問があった。

彼女によると「浦島太郎は亀を助けてあげたのに、玉手箱をあけておじいさんになってしまうのはかわいそうだ」と子どもが訴えるとのこと。さもありなん・・・。である。乙姫さまは、なぜそんなものを渡したのか?どうしてきちんと警告してくれなかったのか?現代的な感覚からすると、乙姫さまの責任を追及する声もあがりそうである。

浦島太郎の複数の解釈

実は浦島太郎の解釈には、数多くの作家や文学研究者、民俗学や文化人類学そして深層心理学といった分野の人たちが挑戦しているのだが、そのうちのいくつかはその場で口にするのがためらわれるような内容であった。

また一般に知られている浦島太郎のお話それ自体が本来の物語とはかなり異なっているがその本来の物語というのも複数存在し、どの物語が真説浦島太郎と言えるかという点については未だに決着がついていない。

ということで、その場では時間がなかったこともあり「次回までにお子さんにお伝えする一番いい答えを考えてきます」とお答えしておいた。この際浦島太郎にまつわる様々な解釈とそれにまつわる自分の考えを整理しておかあさんと子どもに伝えたい解釈をしてみたいと思う。

 

まず何人かの専門家による解釈を整理してみよう。トップバッターはフロイト派の精神分析学をベースに「唯幻論」なる独自の持論を展開して一時期ブームを築いた岸田秀氏の分析。

 

岸田の時間論

岸田説によると、人間が時間を発明せざるを得なかったのは過去が過去として、現在が現在として充足していないがためである。そうでないがためにわれわれは、つねに過去をやり直したがっており、過去をやり直すチャンスが得られるかもしれない時点として未来を設定した。

すなわち岸田説によれば、未来とは修正されるであろう過去である。

過去における後悔の種は尽きないため、未来は無限でなければならない。人が死を怖れるのは、過去を修正するチャンスが限定されるからである。

岸田は以上のような時間論をベースに浦島の解釈を展開していく。

 

時間の流れの止まるとき

浦島太郎が竜宮城で時間の流れを感じなかったのは、竜宮城がすべてが満足されるユートピアであったからである。海の底にある竜宮城は、人間が何ら欲望の不満を知らなかった胎児のときにいた、子宮のシンボルであり、海は羊水である。さらに亀は浦島のペニスのシンボルであり、玉手箱は乙姫の性器のシンボルである。

 

以下少し長くなるが岸田自身の解釈を氏の代表作『ものぐさ精神分析』(中公文庫)から引用してみたい。

浦島が時間を知るのは、乙姫の願いを振り切って現実の世界に帰り、その言いつけにそむいて玉手箱をあけたときである。(玉手箱は乙姫の性器のシンボルである)浦島は、もはや竜宮城にいないのに竜宮城の乙姫を性的に求めたのであった。それは挫折せざるを得ない欲望であり、挫折せざるを得ない欲望をもったとき、浦島は時間の中に組み込まれたのであった。

浦島太郎の物語は子宮回帰願望の物語であり、われわれが時間を持ったのは、二度とふたたび帰れない母の子宮に立ち返りたいというむなしい願望を断ち切れない存在、いいかえれば、ゆきて返らぬ昔の夢をいつまでも追いつづける存在だからであることを暗示している。

ちなみに言えば、確かに見知った家や道はあるのだが、誰ひとり知る人のいない、なじめない土地で、玉手箱をあけて老い果てた浦島の姿は、母の子宮内の楽園から軽率にもこの世にとびだしてきて、確かに現実の世界ではあるのだが、何だか変だ、どこか間違っていると居心地悪く場違いな感じを抱きながら老いてゆくわれわれの姿であり、どうして乙姫に乞われるままに竜宮城にとどまらなかったかという浦島の嘆きは、どうして、何の不安もなかった子宮内の生活を、ものを思わなかった幼い日々をあとに残してきてしまったかというわれわれの嘆きである。

以上がフロイト派の心理学者岸田秀による、浦島太郎の解釈の要旨である。

この解釈にはある種の説得力はある。しかし、この解釈で止まってしまうのはちょっと寂しすぎる。だいいち亀をペニスと見立て、玉手箱を乙姫の性器に見立てる解釈はおかあさんたちが相手の講座にはあまりにも不釣合いである。
女性の受講者が9割以上を占める会場で「浦島太郎に出てくる亀は浦島自身のチン◎コを象徴しています」などと誰が口にできようか。

確かに浦島の物語にはある種の性的なイメージを喚起させるシンボルも散りばめられているが、シンボルのシンボルたるゆえんは一義的な意味に閉じ込めることが出来ないところにある。
それを亀と見ればペニスとひとつきりの意味に封じ込めてしまうことで、シンボルの持つ豊かなイメージが矮小化されてしまっているように思われる。シンボルを一義的な意味に封じ込めてしまうと、話がわかりやすくなったような気がするのであるが、シンボルを用いて表現した意味自体が消されてしまうのである。

時間論に関しては、確かにある種の説得力はある。しかし人間は過去を修正するチャンスのためだけに未来を作り出すわけではない。それまで想像もしなかった何事かが発生するのが未来である。過去の修正や過去において満たされなかった願望の実現どころか、想定外の出来事が発生するのが未来なのである。私たちは「未知」なるものの存在を知っている。未知なるものが宿る場所。それが未来なのである。
未来は未だ見えざる「未知」を認識可能な「道」に変容させ得る錬金術的フィールドとして理解されることで、無限の可能性を帯びるのである。

意識の多層性と物語

岸田理論は、その理論の内側における整合性はきちんと成立しており、岸田氏の頭脳のシャープさを感じさせてくれる。だが夢も希望も広がらずおかあさんや子どもにはあまり聞かせたくない解釈である。

たしかに岸田の解釈が妥当性を持つ意識のレベルというものも存在するが、人間にはもっと多層的な意識レベルが存在するというのが、サイコシンセシス(統合心理学)を実践する私の立場である。

この立場からすると視点をどの意識レベルに置くかによって物語の解釈も変わってくるのである。

岸田の解釈は、浦島太郎という素材を基に岸田自身の物語を描いたものであるといえる。
解釈とはつまるところ、解釈者自身が自らの視点を軸に物語を描きつつ解釈者を取り巻く現実を描き出すという行為である。

岸田の解釈はあるレベルでは成立するとして、より豊かな解釈の可能性も当然存在し得る。怖るべきは物語である。物語はそこに関わる解釈者自身の意識の可能性と限界をあぶりだす装置ともなり得るのである。

重要なことは、優れた物語は、たとえ遠い過去において語られたものであったとしても、常に未知に対して開かれているということである。

                                     (2006、1,27)

 




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